異文化コミュニケーションは「ブッ込み」の連続?

どうも、異文化に生きているwasabi( wasabi_nomadik)です。

幼い頃から外国語を勉強しているような私なので、異文化コミュニケーションと言うキーワードは漏れなくど真ん中ストライクな興味関心の1つです。

きっとこのブログを読まれている方もドイツを含む外国に興味がある方が多いと思います。

海外に興味がある人の多くは、言われなくても自分から外国の異なる習慣や考え方を吸収していくので実際オープンマインドな人が多く、多少自分と考え方が違っても許せたり、受け入れられる素地を持っていると思います。

 

私も割とそのタチで、よっぽどのことがない限りいろいろな人の考え方や意見を認めることができる人間だと思っています。

 

ただ、ドイツに限らず外国に住んでいると異文化コミュニケーションにおいて大切なのは「受け入れる」ことよりも、「素直な疑問を持つ」ことなのかもしれないと思う時があります。

 

なぜなら、受け入れるということは時として「分かったふり」をしているだけになっていることもよくあるからです。

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私は大学のゼミで少しだけ異文化コミュニケーションについて勉強していたのですが、その時に読んだ関連の本では「相手の文化や異なる考え方を理解し、コミュニケーションをスムーズに運ぶこと」ばかりが重要視されていて、その考え自体がすでに日本以外での国にとってのコミュニケーションとは何かを理解していないことの表れだと今になって思います。

 

異文化コミュニケーションという言葉の響きは、異なる文化背景を持つ人たちと分かりあい、陽気に語らうようなイメージかもしれませんが、コミュニケーションとはそもそも、めちゃくちゃ面倒臭いものなのです。

 

もちろん、本やインターネットなどで相手の文化のことを知識として知ることはできます。

イスラム教の人はこういう宗教観に基づいてこのように考える、キリスト教の人はこう、仏教の人はこう、ドイツの人はこう、アメリカ人はこう、etc,….

というふうに大まかに彼らの行動原理や習慣についてあらかじめ知ることは、これも事実の一部ですし全く無駄だとも思いません。相手の文化を知ろうとする態度は尊敬の表れですし、悪く思われることもないでしょう。

 

でも、こういう知識ってどこまで有効なのでしょう?私は異文化コミュニケーションについて学んだ結果、一方的に相手(個人)のことを知ったような気になるのが一番怖いと思います。

 

私自身たまにそういう人に出会います。すごーく少ない事例の中で語ってしまいますが、印象として日本が好きとか日本の文化に興味があると言う人ほど私に対してのステレオタイプが激しかったりします

例えば私はベジタリアンだから寿司を食べないと言っているのに、「でも日本人は皆寿司が好きでしょう?」と確認するかのように言い続けてくる人がいたりします。こういう人の中では、日本を理解している(と思っている)=wasabiのことも理解している、という図式が出来上がっているのでしょう。似たような感じで、あっちが勝手に気を使いすぎていて、どこか壁がある状態になってしまうこともあります。

 

コミュニケーションとはもともとラテン語で、「共有する」という意味です。情報を交換し合い共有することがコミュニケーションであって、相手を傷つけないように、なにか失礼な事を言わないようにと気を使いすぎて何も言わないのでは本末転倒ですし、日本でよく語られる「コミニケーション=スムーズなやりとり」という図式はコミュニケーションのもともとの意味ではないのです。

 

もっと言うと、情報を「共有」する上で何か素直に疑問に思った事があれば、コミュニケーションがスムーズにいかなくともきちんと聞くべきだと思うのです。

なぜなら、相手を理解するためにはまず分からないと思うことが全ての始まりだからです。分からないことは恥ずかしいことではありません。そこに分からないと思うことがなければ理解もありません。分からないから理解するのであって、「分かることを理解する」というのは理論的に不可能ですよね。

疑問に思っている事がもし相手に失礼なことだったとしても、そこで本当の理解が生まれます。身に沁みるんです。

 

ドイツにいると、余計このことを実感します。私が大体人と仲良くなるときは相手に質問を投げかけるときや相手から質問を受ける時です。お互い分からないから、情報を求め、情報交換し合うのです。それが時に更なる疑問を呼び議論に発展する時もありますが、そうしたゴタゴタを通して、時にはタブーをぶっ込みまくりどちらかが納得したり、妥協したり、でもやっぱりなんだか腑に落ちないなんていう曖昧でデコボコなままで徐々に相手を理解しているような、してないような、でも気がついたら相手に対して「愛着」を抱いていた、というような非常〜にメンドクサイ手続きを経てから、それでも最終的には「誰かを完全に理解するなんて不可能なんじゃないか。」という根本的な核心にやっと辿り着けるのです。そんな時の気持ちは、もうこんな感じです。

人間て・・・ムツカシイわ。
「人間て・・・ムツカシイわ。でも・・・」

 

それでも、コミニケーションはデコボコの方がいいんです。だって、表面がツルツルだと引っかかるところがなくてすれ違ってしまうだけ。でもデコボコがあればどこかでお互い引っかかって、繋がることができます。繋がりたければ、ですが。何度も言いますがメンドクサイんですよ、コミュニケーションは。でも、一度相手に愛着が湧いたら、ガッツリ関わらざるを得ないんですよね、それが生き物です。

 

異文化コミュニケーションに関して1つ言えるのは、生活レベルにおいてはそんなことあまり気にしない方がいいということです。異文化というものを大枠で体系的に学ぼうとしている学者や学生は置いといて、1人の人間として誰かに接する時、それが同じ国の人間であろうと違う国の人間であろうと、自分以外の人間はみんなある意味異文化だからです。だから、一番大切なのは1人の人間として相手を知ろうとする態度ではないでしょうか?

 

ということで、海外でのコミュニケーションに対する考え方や異文化への扱い方についてはこんな過去記事も書いているのでよろしければこちらも是非どうぞ。

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